物理主義の主張は心は物質世界または物理世界の一部だ、というものである。こうした立場は、物質が持たないとされる性質を心が持っている、という問題に直面する。それゆえ物理主義はこうした性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならない。こうした説明を与える行為は心の自然化(naturalization of the mental)と言われる。[31] 心の自然化が直面する主要な問題は、クオリアを説明すること、そして志向性を説明することである
多くの心的状態が、異なる個人によって異なった方法で主観的に経験されるという性質を持っている。[19] たとえば痛いということが、痛みという心的状態の性質である。さらにいえば、あなたの痛みの感覚は、私の痛みの感覚と、同じではないかもしれない。なぜなら我々は、どれほど痛いのかを測ったり、どんな風に痛いと感じるのかを表したりする方法を欠いているからである。哲学者や科学者たちは、これらの経験がどこから来るのだろうかと尋ねる。神経的ないし機能的状態がこうした痛みの経験と同伴し得ることを示すものは何もない。しばしばポイントは次のように定式化される。脳の出来事の存在は、それだけでは、なぜこれらと対応する質的経験と同伴するのか説明することができない。なぜ多くの脳の過程が意識の経験的側面をともなって生じるのかという難問は,説明することができないように思われ
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しかし科学が最終的にはこうした経験を説明するにちがいないと多くの人は思っているようである。[31] このことは還元的説明の論理から来ている。もし私がある現象(たとえば水)を還元的に説明しようとすれば、私はこの現象が持っているすべての性質(たとえば流動性や 透明性)について,何故そうした性質を持っているのか説明しなければならないだろう。[31] 心的状態の場合、このことは次のことを意味する:心的状態が経験された性質をもつのはどうしてかを説明する必要があるということである。
内省的な、第一の人の心的状態のある面や意識一般を、第三者の量的な神経科学の言葉で説明するという問題は、説明のギャップと呼ばれる。[45] このギャップの本質については、現在の心の哲学者の間でも、いくつかの異なった見方が存在する。デイヴィッド・チャーマーズや初期のフランク・ジャクソンらは、このギャップを実際は、存在論的なギャップであるとみなす。つまり彼らはクオリアが科学によって説明できないのは、物理主義が間違っているからだと主張する。絡まり合った二つのカテゴリーが存在するのだが、ひとつは他方に還元することはできないのである。[46] これとは違った見方は、トマス・ネーゲルやコリン・マッギンのような哲学者がとる見方である。彼らによれば、このギャップは実際は認識論的なギャップである。ネーゲルはいう。科学は未だ主観的経験を説明することができないが、その理由は科学が求められているレベルのあるいは種類の知識に未だ到達していないからである。我々は問題を首尾一貫した形で定式化することさえできていない。[19] 一方マッギンは次のようにいう。問題は、永続的で固有の生物学的限界の一つである。我々は説明のギャップを解決することができない。なぜなら量子物理学が象にとっては認知的に閉じているのと同様に、主観的経験の領域は我々にとって認知的に閉じているからだ。[47] また別の哲学者たちは、このギャップを単に意味論的問題として片付けている。