秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。
寛永13年(1636年)には出羽国山形藩20万石を拝領。村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑する。寛永20年(1643年)、陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる[2]。以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
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慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦った。
寛文9年(1669年)、嫡男正経に家督を譲り隠居。
寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去。享年63(満61歳没)。生前より吉川惟足を師に卜部家神道を学び、寛文6年(1666年)には領内の寺社を整理して神仏習合を排斥しており、神式で葬られた。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、第2代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯保科姓を通した。第3代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。